ソ連の圧力の終り頃、1990年から当時共産件にあったハンガリーや周辺諸国で民主的に選ばれた新しい政権が初まった。しかし、ソ連の政権組織はまだ変化がなく、ソ連軍も東ヨーロッパ諸国から撤退することもなく、COMECON(経済相互援助会議)とワルシャワ条約機構に制圧されていた。ソ連は、ワリシャワ条約がいずれは解約されることを理解はしていたが、継続を望んでいた。東ドイツは再統一を第一目的としていて、ポーランドやチェコスロバキアなどは、リスクを背負わないよう、ワルシャワ条約機構の改革を徐々に進める方針だった。ところがハンガリーを指導していたアンタル首相だけは、逸速くワルシャワ条約機構を完全に解約することを望んでいた。
1991年のワルシャワ条約機構の本会議によって条約の見通しを立てなければならなかった。アンタル首相の条約の完全解約要望があったにもかかわらず、チェコズロバキア、ポーランド、ルーマニアなどの政府は徐々に改革を進める方針の計画を提出した。アンタル首相が薦めた提案は、周辺諸国に認められないままだった。
ワルシャワ条約機構の最終会議(中央に座っているのはアンタル首相)  
ワルシャワ条約機構の最終会議(中央に座っているのはアンタル首相)  
本会議の議長は、毎年交代で行われ、1991年の本会議ではハンガリーのアンタル首相が務めることになっており、当然のことながら、権力の強いゴルバチョフ大統領も本会議に参加した。
本会議が始まると議長の机の上に、各国に認められた計画書と、アンタル首相独自の計画書との2種類を置いた。本来なら認められた計画書を読み上げなければいけない立場にあったアンタル首相は、突然の閃きによって独自の計画書を読み始めた。この閃きの内容は自分の計画書を読み始め、他の首相から非難を浴びたら、「すみません、計画書を取り違えてしまいました」と謝罪する考えだった。ところが、計画書を読み始めた時、各首相は計画書が違うことに愕然として何の反応もできなくなり沈黙が続いた。各首相はゴルバチョフ大統領の顔色を恐る恐る伺ったまま時間が経過し、アンタル首相の計画書は何の妨げもなく全て読み終わり、その後先行きが分からず恐怖感を持ったまま長い休憩となった。休憩後、ゴルバチョフ大統領はたった一言だけ「はい、大丈夫」と言った。
ゴルバチョフ大統領の考えが誤解や不祥事を避ける為だったか、解約に賛成だったか誰も分からないが、こうして予想よりも早くワルシャワ条約機構の解約が成立した。